◆4月のある日
いつの間にか冬は終わっていた。終わりを想像するのも難しかった仕事の長いトンネルは、曲がり角のすぐ先に出口があったかのように唐突に終わった。こんなものだ。無い、と言われていた新年度からの仕事もすぐに無くなることはないようで、とりあえずはあたたかくなり始めた日差しを楽しむ余裕もできた。
で、僕は何をしていたんだっけ――?
「忙殺」の文字通り、冬の間は死んでいたに等しい気がする。僕の感覚では昨日まで冬景色だったはずなのに――何だか急に、全く知らない場所に予告なく放り出された気分だ。それはそれでちょうどいい。気分を新たにして何かを始めるにふさわしい季節だ。で、その「何か」って――?
この日、家に帰るとRamzy'sからメールが入っていた。「L-78の調整、出来上がりました!」 実にいいタイミングだった。
いまだに夢との境界線があいまいなままの出来事だ。とかく世間的に逆境な時は僕にとっては逆にチャンスとなることが多い。でも今回のことは多大な代償を要する、僕にとっても一大試練だった。そんな魔女の「試練」の成果を、やっと手にすることが出来るのだ。
金曜日の夕方。日中は穏やかに晴れ、その余韻がまだ街中に立ち込めていた。市電に乗る為にすすきの方面へと向かう。夜が近付くにつれしだいに人混みが活気付く地下街を通って、市電乗り場に出る。地上も異様なほどざわめいている。ここだけを見ると不景気がまだ進行中とは思えないくらいだ。
ちょうど出発間際の電車に間に合った。Ramzy'sへ―― 。閉店時間も近い店に入ると、いつものように淡々とN店長が迎えてくれた。あわただしい夕刻の街の雰囲気とは無縁の、ゆったりとした時間に入り込んだ気分になる。
店の奥からギターケースが現れた。久しぶりの対面だ。
飴色ボディーの貴婦人、タンバリン・レディ――表舞台の脚光を一身に浴び、他のどんなギターよりも華々しい歴史を歩むことができたはずだ。それが何故、誰にも知られずこのような姿で眠りの森の奥深く忘れられる道を辿ったのか。希少性と美しさ故、過去の持ち主は本来の楽器としての用途をためらったのか? だとすれば、それは悲劇だ。
でも、それはもう過去のこと。ギターとしてのすべてをやり直すべく、その準備のためにここに預けた。究極の魔女が本当に長い眠りから覚める時は来たのだ。
「ばっちり直りましたよ」
言葉通りなのはチューニングの音でわかる。くっきりと深く、なんとも煌びやかな音色をしているのだ。これは魂が惹きこまれそうな響きだ。
「どうぞ」と手渡される。無意識にネックを握って思い出した。やや尖っていた印象のフレットの端がきれいに整えられている。ちょっとだけ低いと感じていた弦高も調整されていた。さすが。
肝心の音は? 2ヶ月前、一度弾いたきりの音はもう正確には覚えていない。鈴鳴りの印象は強かったけれど――。
<<<<<<< チャリィィィィ~ン >>>>>>>
思わず息を呑んだ。くっきりと輪郭の整った音が力強く響き渡る。なんという鈴鳴。幾重にも広がる水面の波紋のような余韻に聴き惚れる。 美しい――。
ブレーシング剥がれの影響はどの程度音に影響があったのだろうか? 今回はここが最大規模の修理個所となったのだが。
「音がキッチリ締まりましたね。」とN店長。力強いと感じたあたりがそれにあたるのだろうか。どうやら姿形の魅力以上に、僕はこの「音」の魅力(魔力?)に魂を吸い取られそうだ――。
うん。完璧だ。何も言うことはない。これでやっと本当に魔女は目覚めることができたのだ! 試奏を終えて、改めて見たタンバリン・レディの表情がかすかに微笑んでいるように見えた――。
◆物語は始まる
思いもよらない騒動の発端から2ヶ月――。何の因果か僕の許へやってきた究極の魔女。その魔女が永い眠りから目覚めるまでの記録はここで終わる。でも、これが物語の結末ではない。
究極の魔女が目覚める時、何かが始まる――その予感は確実に僕の中にあった。
これ以上ない伴侶を手にした僕のギターライフがどう変わっていくのか? その行き先は唐突に訪れたこの年の春と同じ、何かの始まりの予感をはらんだ日差しの向こう側に向かって続いていた。
そして本当に、ここから物語が始まった。
純粋に憧れていた高校時代は「究極の魔女を手にするならプロとして弾き語りで舞台に立っていなければならない!」、そう思っていた。逆に、そのくらいの実力と自信がなければ、究極の魔女を手にする資格はない! と。
過去の自分に問いかける。図らずも究極の魔女を手にした今、プロうんぬんのくだりは妄想としても、少なくとも「弾き語りで舞台に立つ」必要はあるのではないか? ただ、そのためには、避けて通れない壁があった。それは「語り」、つまり「歌」の方――。
そう、歌がどうしても上達せずに一度は完全に諦めた「弾き語り」だった。それゆえ、第二期は完全に「ギターを弾く」ことに特化した活動だったのに――。まさか、もう一度歌うことに挑戦しろ、ということなのか!
いや、きっと本心ではそうしたいと思っていたんだろう。究極の魔女がそのことに気付かせてくれたんだと思う。その想いは逆らい難いうねりのように徐々に大きくなり――そして2009年6月、「トリムDEらいぶ」に飛び入り参加! まさかの「弾き語り」活動再開の運びとなる。
これが僕の第二期音楽活動の大きな転機。
その後――歌は独学で練習を始めたけれど見事に行き詰まり、2011年1月、現在も通っているVocal教室に参加。地道にライブ活動の経験値も積み、2013年2月からオリジナル曲のユニット「Coffee Break」の活動開始――現在に至る。
究極の魔女は僕に、一度挫折した「弾き語り」を再開するきっかけをもたらしてくれた。究極の魔女が目覚める時、本当に何かが始まったのだ。かつて見た夢の中の出来事のように。
そして今もまだ夢の途中――。
<完>
Larrivee L-78 Presentation Cutaway 1979
<<仕様>>
表板:Solid German Spruce
側・裏板:Solid Indian Rosewood
ネック:One-piece Honduras Mahogany
指板:Solid Ebony
下駒:Ivory
サドル・ナット:Ivory