究極の魔女  

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◆魔女がやって来た日 

 

 翌日も、その翌日も落札の事実を忘れてしまう程の多忙な日々は続いた。 

 

 3日後、日曜日。外は曇り。まだ真冬で、最高気温もマイナスの真冬日予想だ。そして、今日は魔女がやってくる日。その事実が事実として実感できていない。

 

 たった3日前の出来事――本当は夢を見ていたのではないか? 最近は忙しすぎる。その反動で抑圧された妄想が、一時的に僕の脳を支配した結果に過ぎないのではないか?

 

 休日だけれど、普段と同じ時間に起きて、クラシックギターの練習をする。普段どおりに。練習が終わると、朝食を取る。普段どおりに。特別変化の無い、普通の休日だ。けれど、朝から他人の視線で自分を見るような落ち着かなさを感じる。冷静な自分と、はしゃぐ自分と。 

 

 昼前。

 

 ごく普通に荷物が届いた。静かな水面にふわりと木の葉が落下したように波紋が広がる。

 

――これは現実 

――これは現実 

 

 夢ではなかった。本当にギターが届いた! 

 

 やっと目が覚めた。ダンボールの梱包を外すと、年季の入ったハードケースが現れた。外気との温度差を考え、しばらくそのまま室内に放置する。 

 

 その間に、昼食を食べる。

 

――冷静に 

――冷静に 

 

 そして、いよいよハードケースを開く――

 

 

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 中身を見た瞬間の想いをここで言葉にすることは不可能だ。衝撃のL-78――長年見続けた夢の、まぎれもない本物の姿がケースに横たわっていた。

 

 めまいを感じる。僕の記憶の中のLarrivee L-78。それが今、現実と同化しようとしていた。様々な感情が竜巻のように次々と湧き上がり、そして消えた。全ては一瞬の間のように思えた。あるいは長い時間だったのか――。

 

 我に返ると、意外にも冷静な自分がいた。あらためて現実のL-78をしみじみと眺めてみる。イメージは30年前。ここにあるのはそれから30年が経過した姿だけれど――とてつもなく美しい。

 

 遠い昔、僕を虜にした魅力、いや、魔力とも言えるオーラは決して想像の産物ではなかった。そして30年後の僕をもやはり一瞬にして魅了してしまうだけの妖しい輝きを放っていた。

 


 

 ゆっくりとケースから取り出す。ようこそ、僕の許へ――。前所有者がなぜ故手放すに至ったか、事情は知らない。かつてない景気の悪化がその一因だとすれば、この逆境が僕に有利に働いたと言えるかもしれない。前所有者の許を離れようとした魔女は行き先を探す。飾りとしてではなく弾いてくれる、自分にふさわしい所有者を。僕がふさわしいかは怪しい。でも、世界中の誰よりも探していたことについては自信がある。 

 

 魔女の呼ぶ声がたまたま無意識の僕に届いたのか? 数日前、あんなわずかな時間でヤフオクを見たことは、偶然だったのか? 否! 来るべくしてやって来た。そう思いたい。 

 

 

◆物語の終りと新たな始まり 

 

 僕はギターのコレクターではない。どんなギターでもプレイヤーとして接したい。冷静な現実の僕はギターのチェックを始める。ほぼ未使用――その説明に偽りはないだろう。ただ、この飴色に焼けた表板はどこかで長期間展示保存されていたのだろうか?

 

 初めて見るのが象牙のブリッジだ。

経年変化でやや黄ばんではいるが写真で見た通りの装飾が施されていた。あたりまえの事だけれど、にわかには信じられない。 

 

左側の絵は馬に乗った男性。王子か? 

 

右側の絵ではどこかの村で娘が踊っている。

 

下部は見つめあう王子と娘。これがタンバリンレディの物語なのだろうか? 

 

そのタンバリンレディはインレイとしてヘッドで輝いている。


 

 人物、動物――全く同じものは二つとないと言われるLarriveeのインレイ。その頂点に君臨する「人物」の一つであり、初期Larriveeインレイの象徴とも言えるのがタンバリンレディだ。芸術品と称される見事な「作品」はLarrivee氏の奥さんの仕事によるもので、音だけではLarriveeがここまで世間に認知されなかったかもしれない。少なくとも、僕に衝撃を与えることは無かっただろう。

 

 感慨深い。Larrivee L-78 Presentation Cutaway――その美しさは本当に芸術作品のレベルだったのだ。 

 

 

 ところで。これは本当にカタログ撮影に使用された個体そのものなのだろうか? 今こそ確かめなければならない!

 

 現物と、カタログ写真、それに雑誌の写真。入念に見比べる――同じだ。タンバリンレディのインレイ――同じ図柄でも同一デザインは二つとない、と言われる手作りのインレイ。それがデザインから貝の模様に至るまで全く同一。ボディ表板の木目、ブリッジの彫刻、サウンドホールロゼッタのインレイ――どの部分も一致する。

 

 結論は、どこをどう比べても同一個体であることに疑いの余地はなかった。天然素材製品でここまで同じ特徴のものが別個体だったら、逆に驚きだ。

 

 やはりそうか。とはいえ、無意味かもしれないけれどプラスαで第三者的な裏付けが欲しい。出品者はこのことを知っていたのだろうか? 問い合わせてみると、出品者本人は事情を知らなかったようだけれど、わざわざ確認してくれたようで、回答は「前所有者の関係者に確認したところ、おそらくカタログ撮影に使われたものです」とのこと。 

 

 これ以上の調査はもう不要だろう。Guitar Bookに載っていた衝撃のL-78、かつての日本版カタログの表紙を飾っていたタンバリンレディ、間違いなくその本物がここにある。この事実はとてつもなく重い。そして――。

 

 

 「究極の魔女」の物語はひとまずここで終わる。同時に、僕を悩ませ続けた、初代Larriveeにまつわる後悔の日々も終わる。魔女の幻想はやがてこの現実の姿に同化されていくだろう。

 

  ここから先にあるはまた新たな物語。おそらくはギターケースの中で長い間眠っていた魔女――ちゃんと目覚めるのだろうか? そしてその実力は?

 

 2009年2月――。僕はいまだ先の見えない嵐の日々の中にいた。この奇跡の出会いで、このあと本当に運命が変わって行くとは知らずに。

 

 

<完>